世界女性会議ネットワーク関西ニュース 2009年8月

「世界女性会議ネットワーク関西ニュース 2009年8月」に寄稿しました。

 夢にも思っていなかった 商社―専業主婦―女性センター所長―そして市議へ・・・

尼崎市議会議員 須田 和(むつみ)

2009年6月7日午後、中学校の体育館で、生まれて初めて自分の名前を投票用紙に書いた。午後9時には、4期務めて引退される議員に厚意で貸していただいた選挙事務所へ。2階ではテレビ報道を待つ仲間たち、下では落ち着かず立ったり座ったりしていた私と、読売・神戸新聞の記者さんたち。開票場には選対メンバーの家族が双眼鏡で用紙の束を数えている。テレビのテロップに流れる選管の公式発表の数字はなかなか増えず、前回を下回る投票率の低さには落胆。双眼鏡での3000票確認の報、新聞社の当確、インターネットの速報での「当確」、遠方の家族や応援団からのメールや電話。10時半ごろに、やっと信じることもでき、新聞用の「ばんざい」のシーン撮影をした。

私は立候補者59人、定数44議席の20位、3,434票で当選した。
私は’75年、大阪外国語大学のインドネシア語学科に入学したが、「四大卒女子・地方出身者」には就職活動応募のチャンスもなかった。男性が能力を発揮できるよう、補助事務と「気働き」をすることが評価され、同期の男性とは初任給が数千円も違っていた。
日本生まれの外国籍の男性と結婚、妊娠、退職、2児の子育て、そしてドーンセンターでの学びと活動から、’96年に新設の三田市立女性センターに再就職した。離婚、兵庫県立女性センター・情報アドバイザーとして5年勤務した後、’04年に指定管理者制度が導入された尼崎市女性センター・トレピエの初代民間人所長となったのである。
一度も「政治」や「議員」を自分のライフワークや目標と考えたことはなかった。トレピエ所長としては、5年以上は在職しないという思いでいたところ、地元の女性たちの強い意志、白井文市長や兵庫県議のいなむら和美さん(無所属)の応援で、立候補の決意を固めたのである。’09年3月末に退職し、「資金」、「人」、「時間」、すべて足りない私が当選できたのは、市内外の多様な立場やネットワークをもつ女性たちの応援のおかけである。

選挙応援すらしたことのない私は、街頭演説や街宣車での名前やメッセージの連呼、手振り、握手などが苦手で、最終日まで、選対本部は厳しい状況だった。他市から、私が出会ったことのない女性議員たちも応援にかけつけてくださって、市長や県議などとの言動を見聞きして初めて、候補者に求められるもの、選挙活動のスタイルの必要性、その後の活動への影響などたくさんのことを知ることができた。 笑いや感動、感謝、そして寄せられる期待への畏れ、不安・・・。複雑な感情の中で、心身ともに健康でいられたのは、事務所の運営、スタッフの配置、食事づくり、白手袋の洗濯ほか、もろもろのことを、候補者が自分らしく力を発揮できるように動いてくれた女性たちのおかげだと思う。

私は何かをつくるという約束はせず、「子育てにやさしいまち」、「誰もが大切にされ認め合えるまち」、「市民の力と経験がいきるまち」というビジョンと民営化した市の公共施設の所長経験を活かすと訴えた。「白井市長と共に開かれたクリーンな市政をしがらみのない立場ですすめます」がキャッチフレーズであった。職員を威圧し、要求ばかりする議員ではなく、「対立より対話」をし「要求よりも提案する」議員になりたい。スーパー前では「1円でも安く、しかし安全でおいしいものをと考えて買い物されているように、市の財政も考えませんか」、通勤時間帯の駅前では「職場としての尼崎、暮らす町としての尼崎、どちらももっと居心地のよいものになるように、ワークライフバランスを」と話した。

12年間は専業主婦として、子育て支援や町のバリアフリーの活動をし、12年は男女共同参画社会づくりという国策を事業化する女性センター3箇所で勤務した。

そこで得たことを、そこでできなかったことの実現につなげていきたい。

(「世界女性会議ネットワーク関西ニュース 2009年8月」に寄稿した記事です。)


ページのトップに戻る