独立行政法人 国立女性教育会館主催アジア・太平洋地域リーダーセミナーで講演挨拶をおこないました。
その一部動画とスピーチ全文です。
アジア・太平洋地域における政府の男女共同参画推進官やNGOリーダーのみなさま
ようこそ尼崎市へおいでくださいました。
21、22日にNWECでお目にかかった須田むつみです。今日はここでお迎えできず本当に残念に思っています。私は女性センター・トレピエの所長を2009年3月まで務めました。そして、2009年6月の尼崎市議会議員選挙に立候補し、当選致ししました。議員としては1期目、まだ2年と3カ月の新人です。さきほど、みなさまは稲村和美市長を訪問されたと思いますが、当時県会議員だった稲村さんも、私の立候補を強く勧めてくださいました。
1995年、1月17日、冬で、まだ外は暗い午前5時46分、阪神淡路大震災が起きた時は、私はこの尼崎から、直線距離で北へ25㎞のところにある三田市(さんだし)の自宅にいました。夫と小学生の息子、幼稚園児の娘と眠っていた時間です。経験したことのない、下から突き上げられて体が跳ねるような、激しい揺れを感じ、飛び起きました。家も私たちも被害はありませんでした。
ラジオでは、かなり大きな地震が起きた、震源地は淡路島で一人死亡というのが第一報でした。 まだ携帯電話は普及しておらず、家の電話はつながらないし、かかってこない。不思議なことにアメリカやカナダの友人からの電話がつながりました。
私は当時、専業主婦でしたが、「MS.プランニング(ミズプランニング)」という子育て中の女性のグループをつくり、情報誌を自費出版していました。子どもと出かける、学ぶ、相談する、再就職するなど、子どもを育てている母親自身が、見て、聞いて、歩いて集めた情報を小さな本にして、通信販売と書店で売っていました。
夫たちは家庭よりも仕事を優先するという意識が今よりも強かった時代で、母親たちが「子育ての負担感、閉塞感」が苦しいといっても、それは母親個人の資質だとしてとらえられていました。「●●ちゃんのママ」とか「須田さんの奥さん」としか呼ばれない、自分の名前は失ったかのような毎日のなかから、その苦しさは個人の問題ではなく、社会の問題だと気づきだした頃でした。
その頃に阪神淡路大震災が起き、私は「震災同居」によって、「ヨメ役割」や、母親・妻としての役割などがいっそう強く自分を縛ったかのような気持ちにもなっていました。
「震災同居」- 被災した親や親せきを自宅に迎え入れ同居すること。被災して精神的にダメージを受けている人を、突然、自宅に迎え入れ、同居することは、どちらにとっても不安定な苦しいものであったと思います。私も、2か月間ではありますが、義母と同居することによって、「ヨメとしての役割」も果たすことになりました。 電気、水道、ガスが復旧し、近隣で食料品が買えるようになって、義母がまた自宅にもどって行くというときは、ほっとした気持ちと、一人で神戸に帰してよいのかという思いがありました。期待される「ヨメ役割」を果たしていないという複雑な思いが、私を子どもを育てながらでもできる支援活動へと向かわせました。
乳幼児を連れて避難所、そして仮設住宅に住む女性たちに、主婦である私たちができることは、何かを考えました。そして、相手のニーズに応じた、子どもの洋服や用品を届けようということになりました。新聞社に協力してもらい、子育て中の被災者が必要としているもの、子ども服ならばサイズも書いて私たちに送ってくださいと募集しました。
そのリクエストに合わせて、仲間や情報誌の読者から着古していない子ども服や布おむつ、靴、ベビーカーなどを集めて、被災者に直接送りました。個別に小包で送る送料は、自費出版していた情報誌がよく売れており、その売り上げから出せたのです。
その活動の中では、さまざまな女性たちの、そして母親たちの困難を知りました。倒れた家具の下敷きになり、幼い子どもだけが犠牲となった夫婦。自分を責め、悔いと悲しみから抜け出せず、離婚に至ったケースもありました。
大手の企業に勤める夫たちは、家族のもとを離れて、会社がおさえたホテルの部屋から通勤し、子育て、家事、親せきなどとのつきあい、そして復旧のための地域の活動がすべて、妻の負担となったケース。夫たちが家族よりも会社を選んだ、選ばざるを得なかったことが、その後の夫婦の関係、家族の関係に大きな影響を与えて、離婚に至ったケースもありました。
のちに「震災離婚」という新しい造語で表現されるようになりました。阪神淡路大震災では、犠牲者6,402人のうち、女性 が3,680人。女性の犠牲者が男性の 2,713人より967人も多かったのです。これは、阪神淡路大震災の犠牲者の多くは就寝中に倒壊した建物によって圧死しており、中でも、家賃が安く老朽化した住宅に暮らしていた、非正規雇用の女性たちや、年金が少額の高齢女性たちが犠牲となったとも言われています。
阪神淡路大震災で、固定的な性別役割分業の意識について自覚し、そして賃金格差などによって犠牲者となった女性が多数いるのを知ったことも、その翌年から私が女性センターで働き始めた動機にもなっています。
私は5月と9月に東日本大震災の被災地を一人で訪問しました。岩手県の被災地では、もりおか女性センター館長の田端さんが車で案内してくれ、大船渡市の避難所で、フランスの化粧品会社から届いた化粧水や乳液、ハンドクリームの入った小さなポーチを女性たちに配る手伝い等をしました。
すでに3カ月になった避難所の生活で疲れ、肌も荒れてしまっている女性たちは、食糧や衣料、医薬品ではない支援物資―化粧品のポーチの赤いハートのマークをじっと眺め、そして驚き、とても喜んでおられました。
宮城県仙台市では子育て支援センターの館長伊藤さんが、仙台市の沿岸部を案内してくれました。全国の子育て支援の母親たちのグループから、たくさんの義援金や、リクエストに応じた物資が集まっていました。私が所属していたミズプランニングからも10万円を送り、それは壊れてしまった大型の遊具を買い替えるのに使ってもらいました。
また、仙台市では、NPO法人「イコールネット仙台」が「せんたくネット」という新しい被災者へのサービスをしていました。避難所の女性たちの洗濯ものを預かり、個別の袋に入れて、仙台市男女共同参画センターに持ち帰る、登録した洗濯ボランティアの女性たちが、自宅で洗濯をして、またセンターに届け、センターから避難所に届けるというものです。
これは、避難所の洗濯機の数が少ない、干し場の広さも十分でない、見えるところに下着を干す抵抗感、干していた下着がなくなってしまうという被災者の声に、すぐに応えた独自のサービスです。しかし、「女が自分の下着を他人に洗濯してもらうべきではない」という声もあったそうです。被災地を訪問して、私が見聞きしたことの中には、「こんなときだからこそ、男ががんばらなければならない」、「防災は男の問題、女では無理」、「男は外に復旧作業や役所の手続きに行く、女は避難所で子どもや高齢者の世話、食事や掃除をするものだ」という性別役割分業意識による発言が少なくありませんでした。
また、避難所に女性の班長、副班長もおられましたが、「班長会議に女性がでても、なかなか意見を聞いてもらえない」という本音も聞きました。
合わせて、年代を問わず、女性も男性も忍耐強い、不平を言わない、強く自己主張をしない、東北の被災地の方たちの資質にも何度も出会いました。阪神淡路大震災の教訓を活かすという点では、支援物資の品目や量に女性や子どもたちの必要品が加わったことや、配布方法、避難所の設備や仮設住宅のつくりなど、改善されているものもありました。
女性が女性であるがゆえに、より困難な状況になることが理解され、防犯ブザーの配布、避難所の防犯の貼り紙なども、阪神淡路大震災被災地の女性への被害から、取組が進んだ一例です。
しかし、個別のニーズにはなかなか対応できていないことは、17年前とは変わっていません。だからこそ、NPOの女性たちが被災地で当事者の声を聴き、動いているのです。
そして、被災地の復興にかかわる復興会議、復興計画の策定に女性の参画が極めて少ないことは、17年前と変わっていないのです。
日頃から、まちづくりや防災に参画する女性の数をもっと増やすこと。専門家ばかりでなく、生活する者の視点から課題をみつけ、それをまちづくりの過程で発言する機会が、女性にもっと与えられるべきです。そして、防災・まちづくりに参画できるような力を女性が得られるような取組も、これからの女性センターの課題だと思います。10月11日、兵庫県立男女共同参画センターで、「男女共同参画の視点での防災マニュアル」作成のためのワークショップを行い、私が講師を務めました。できあがったら、英語版もつくり、サイトなどで発信できるように提案しています。
みなさまも、NWECでの講義や人と防災未来センターで見聞きされたことで、考えられたこと、行政や女性センターへの提案などをぜひ、お聞かせください。私は、11月に、先日お渡しした写真集の気仙沼市に、三度目の被災地訪問をしてまいります。市議会議員としては、気仙沼市への尼崎市の支援の方策がどのようにあるべきかを考えます。
6月と7月に尼崎市内で二度開催した「被災地報告会」の参加者の感想や、阪神淡路大震災の経験などをもとに、さまざまな立場の人が、被災地や女性の被災者支援について、情報を共有する会「ゆるやかにつながり息長く被災地の女性を応援する会」の呼びかけ人としての活動も始めます。
みなさまが、残りの数日間、さらに実り多い研修をされますように、そして再び尼崎市を訪ねてくださいますよう願っています。 ありがとうございました。